ひと

慰安婦の慟哭が聞こえる◇かにた婦人の村_天羽道子さん

ちば民報 2014.4.16

天羽道子名誉村長は87歳真っ白な頭髪に看護師帽をのせている

館山市の海上自衛隊館山航空基地をみおろす小高い丘の上に、長期婦人保護施設「かにた婦人の村」(設置経営者・社会福祉法人ベテスダ奉仕女母の家・大沼昭彦理事長)があります。ここは旧海軍砲台跡(約3万坪)で、その敷地の中に「従軍慰安婦の碑」が建っているというので、お訪ねしました。応対してくださったのは、創設者の深津文雄牧師の後を継いで長く施設長をなさっていた天羽道子名誉村長(87歳)。高齢を理由に、昨年やっと新施設長と交代されたばかりです。

貧しいだけでない

「かにた婦人の村」は、65年に厚生省の認可を得て婦人保護施設として設立されました。これまで、22都道府県からのべ184名を受け入れてきました。その後、他の施設に41名が移り、73名がここで亡くなりました。現在、女性70名が職員18名とともに暮らしています。生活費は国と県の補助金や寄付金で賄われています。昨年からは20~30代の若い人も迎え入れ、現在23~91歳 (平均年齢68歳)の入居者がいます。

 敷地内には、農園、作業場、旧家畜舎(高齢化で面倒がみれなくなり、現在は飼っていない)、8つの寮、宿舎、食堂、教会堂、事務所等が点在しています。入所者はそれぞれ自発的に編み物、農耕、園芸、陶芸、製菓など12ある作業班の好きなところに出て作業をします。この敷地には、塀も門もありません。記者たちが訪れた際、事務所棟は無人でしかも鍵がかかっていませんでした。そこに、キリスト者の人々の善意を信じる姿が体現されていて、驚かされました。

「かにた婦人の村」には前身があります。58年に設立され、東京都練馬区にあった「いずみ寮」です。「いずみ寮」は、56年の売春禁止法の制定とその完全実施(58年)を受け、元売春婦を早期に社会復帰させるため、都の委託で作られた7つの施設のうちの一つで、深津文雄牧師が設立しました。しかし、早期の社会復帰が困難な人々がいました。ひとりの人間が苦界に身を沈めるには、ただ貧しいだけではなかったのです。果たせるかな、彼女たちの大部分は何らかの知的・精神的障害(無惨な体験によるトラウマ等)を抱えていたのです。簡単には社会復帰できそうもない人々のため、深津牧師は日本で初めて、「長期」と特記された婦人保護施設をこの館山の海軍砲台跡に創設したのです。それが「かにた婦人の村」です。

真摯に向き合う

天羽さんは戦後、キリスト者として深津牧師のもとに通っていました。そこで、ドイツの奉仕女の話を聴き奉仕女に志願しました。48年、23歳の時です。終戦直後の日本には、浮浪児や戦争で傷ついた人がたくさんいて、胸を痛めていたのです。深津牧師から、看護の勉強をして準備することを勧められました。そして54年から、女性の保護事業に本格的に参加。58年に創立された「いずみ寮」、78年から「かにた婦人の村」の職員となり、ここで36年間を過ごすこととなったのです。

天羽さんは最近、胸を痛めていることがあります。それは、昨年の橋下大阪市長の「慰安婦は必要だった」との発言と、その後の日本の動向です。橋下発言に直面した時、日本軍によって傷つけられた女性の尊厳と名誉の回復をこそ願い続けている、元慰安婦の方々を一層傷つけることになってしまったと、なぜ思い至らないのかと。そして、橋下発言を生み出す土壌が日本の国の中にあることに胸がつぶされそうになりました。わが国に「買春」を許容する風土と、女性蔑視と差別のあることに思いを至さなくてよいのか。このことに眼を向けなければ、解決していかないと思ったのです。

日本政府は今、韓国の元従軍慰安婦の訴えを「もう終わったこと」とつっぱねています。しかし、この問題に時効はありません。朝鮮の12~14歳の少女まで強制連行(拉致)し、慰安婦にしました。日本人が今、北朝鮮の拉致事件の一刻も早い解決を願い、拉致家族の悲しみを共有しているとき、「同じ悲しみを韓国・朝鮮の人たち(元慰安婦の家族)も抱いているのではないか」と、私たちは想像しなければなりません。日本政府はがこの加害の歴史に真摯に向き合ってほしいと切望しているのでした。

敷地山頂に建てられた従軍慰安婦の碑、下草は刈り取られ、木々の緑に囲まれたっている。

敷地山頂に建てられた従軍慰安婦の碑

実は、「かにた婦人の村」の入所者だった城田すず子さん(仮名)が、自分が従軍慰安婦だったことを、当時の施設長だった深津牧師に告白していたのです。そこで初めて慰安婦の存在を知った天羽さんは、「ショックを受け」ます。この告白の記録は今日「マリヤの賛歌」(城田すず子著・かにた出版部・1500円)として、71年に出版されました。

その中で城田さんは、被害者でなければ到底説明することができない証言をおこない、「オンナには地獄だった」と慰安所における強制使役の真実を明らかにしたのです。歴史学者は、彼女のような「日本女性」は数万人はいただろうと考えていますが、名乗り出て自分の体験を話した日本人「慰安婦」は城田さんだけでした。

城田さんは生前、「同僚の慰安婦たちの悲鳴が夢に出てきて、うなされる」と深津牧師に手紙を出し、「どうか慰霊塔を建てて下さい」と訴えていました。この城田さんの思いを知った深津牧師は、85年に山頂に従軍慰安婦の碑を建てたのでした。この「慰安婦」たちの悲劇が国際問題となったのは、「かにた婦人の村」で20年近く暮らし、93年に亡くなった城田さんの死の直後からです。天羽さんは、この城田さんの死を看取ったのです。

碑が建つ山頂に天羽さんと登りました。そこは、館山の市街と海が一望できる場所でした。そこに「噫(ああ)従軍慰安婦」とだけ刻まれた、高さ2mの石碑が建っていました。その「噫(ああ)」という文字からは、「慰安婦」たちの慟哭が聞こえてくるように感じられたのでした。

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