ちば民報レポート

保健室の子どもたち1 言葉の背景を見つめて

◇養護教諭サークル

  ちば民報 2013.8.25

いじめ、体罰、不登校、変わらぬ管理と競争の教育…。こんな現実のなかで、日々、子どもたちをいつでも温かく受け入れる場、保健室。その先生たちが見た子どもたちの姿をレポートしていただく。第一回は、保健室の概観を語っていただいた。

ことしも猛暑の夏に、平和を願うシンボルの夾竹桃が紅く鮮やかに咲いた。

♪夏に咲く花夾竹桃
戦争終えたその日から
母と子どもの思いをこめて
広島の野に燃えている
空に太陽が輝く限り
告げよう世界に
原爆反対を

この歌のように私たち養護教諭(保健室の先生と呼ばれている)は、父母と子どもの願いを胸に、子どものいのちと健康を守り育てる仕事に携わってきた。いつも子どもの側に立って、子どもの生活を見つめ、子どもの言葉の背景を見つめてきた。話の行間をわかろうと…。子どもの事実を発達課題、からだや健康の課題ととらえ実践の方向をさぐっている。

養護教諭の歴史は、常に子どものいのち、健康の問題が浮き彫りになるなかで展開されてきた。大正末期、子どもたちにトラホームが蔓延していた。行政側から、あるいは学校の教師側から父母から、トラホームを治療してくれる「学校看護婦」を設置してほしいという要請があり、養護教諭の前身の「学校看護婦」がおかれた。学校に、からだのことを考えられる人をおかなければ、ということからだった。

学校看護婦は、何校も兼務をしながら、洗眼点眼の治療をして、トラホームの感染を抑えていった。そのほか、むし歯の予防、インフルエンザの予防、赤痢などの伝染病の蔓延の予防…。

身分としては教諭と認めてもらえなかったが、主体的に仕事を選んだと伝えられている。やがて全国の学校看護婦たちは、子どもの健康問題について交流をはじめ、あわせて身分の確立を求めていった。それがみずからの仕事の専門性を確立する土台となった。

学校看護婦、そして養護訓導から養護教諭へと歴史をつくった。そして長い暗い戦争の時をへて、子どものからだと健康を見る目は、「教え子を戦争に送るな!」という運動に発展した。

養護教諭の歴史は、先輩たちが汗と血を流して築いてきたものだ。いま養護教諭の仕事を受け継いだわたしたちは、今という時代のなか、保健室でさまざまな子どもと出会い、向き合っている。

この連載では出会った子どもたちの姿を紹介していきます。担当は養護教諭サークルです。(湯ばあば)

いつもあったかい保健室の中で、植物が気持ちよさそうに、風にゆれている。その横で、ひだまりのような笑顔でいるあの人…。

いつもあったかい保健室の中で、植物が気持ちよさそうに、風にゆれている。その横で、ひだまりのような笑顔でいるあの人…。

そう、ここはからだを治してくれるだけではない。心までゆっとりさせてくれる場なのだ。暑い日は“暑いね”と涼しい風を当ててくれ、寒い日は、“寒いでしょ”と暖かい言葉で迎えてくれる。

そしてきょうも私は、陽だまりの待つ保健室のドアをたたく。心のケアをしてもらうために。(中3)

からだのことを、たくさんはなしてくれてありがとう! とてもおもしろくて楽しかったです。(小3)

ぼくが、せんせいのことで一番思い出にのこっていることは、移動教室です。おわらいの発表をしているとき、せんせいは、大口をあけてすごくわらっていました。せんせいといっしょで、安心したよ(小6)

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