ちば民報レポート

保健室の子どもたち42 被災地の語り部は

◇養護教諭サークル 中学校 あまちゃん

ちば民報 2017.3.19

元同僚のひかる先生は、4年前に、幼馴染の彼と結婚するため故郷の中学校に転勤した。「福島の子どもたちがあんないじめにあうなんて、信じられない」。今年は怒りの文面から始まっていた。

―東日本大震災直後の4月、私たちの勤務する学校に数人の福島からの子どもたちが転入してきた。家庭の事情で家族が一緒に暮らせないため都の施設に宿泊して通って来ていた。派遣された教職員が保護者の代わりを務めていた。

ひかる先生のクラスにも、男子2人、女子1人が転入した。毎朝、施設の先生方は、子どもたち一人ひとりの様子を報告してくださる。ひかる先生と私が一緒に聞き取り、また学校での様子も詳しく伝えるようにした。

最初の頃は、「頭が痛い」「気持ちが悪い」「眠れない」等々、3人は教室よりも一階にある保健室に真っ先に来て訴えていた。ここで少し落ち着いて、教室に向かうのが日課だ。

3・11の当日、体育館では「いのちの授業」を全校生徒向けに実施していた。まとめに近づいた14時46分。大きな揺れがおこり、子どもたちは体育館の床に這いつくばるようにして揺れがおさまるのを待った。

その年は、子どもたちにとって忘れられない「いのちの授業」となった。次の年は、宮城から講師の先生に来ていただき、映像をまじえながら、被災地の実態、子どもたちの様子を語っていただいた。

「命の授業」、福島の子どもたちとの出会い…。ひかる先生にとっても忘れられない経験だ。

故郷の学校に転勤した当初、子どもたちは、被災者との接点はなく原発のこと、震災のことについてほとんど関心がなかった。このままでは風化してしまうのではとの思いから、3・11が近づくと、自分の体験を話し続けた―。

震災から6年、いまだに家族離ればなれに生活している子どもたちがたくさんいる。友人が勤務する学校では、被災地の子どもたちが多く、語り部の方を招き、震災体験を話していただいている。

被災したころは小学生だった子たちが、「震災のことを忘れてほしくない」「地元が好きだから」と、高校生になった今、語り部として活動をしているグループもある。

夫の死を乗り越えようとしている知人もいる。原発事故で着の身着のまま逃げ、数カ所の避難所を経てやっと落ち着いたのが、娘さんのいる東京だった。

夫は、原発反対の活動で地域の人たちとつながり、たくさんの仲間と生活していた。でも、戻れなくなったふるさと。慣れない土地と仲間がいない都会生活。やがて、心を病み外へ出ることもできなくなった。避難してから3年、体調をくずして亡くなった。

被災地の語り部は今、「集会には夫の大きな写真をもって出かけます。わたしが、夫の言いたかったことを伝えなければ…」と、つらい経験を乗り越え、ようやく語りはじめた。

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