風物

我孫子市・正泉寺 「女人成仏」の歴史秘め

(ちば民報 2012.11.4)

「女人成仏血盆経出現図」とする絵

10月に入り、秋の気配が漂う日に我孫子市にある正泉寺を訪ねました。同寺は、手賀沼の畔の湖北駅の西側の住宅地、湖北台の中にあります。鎌倉時代の弘長3年(1263年)に執権北条時頼最明寺入道の息女桐姫(法性尼)によって開基されたと伝えられます。

境内には、この法性尼の墓もあり、当初は、法性寺と言っていましたが、後に君津郡の真如寺から俊峰周鷹を迎えて開山とし、曹洞宗大竜山正泉寺と寺号を変えました。

同寺は、近在の手賀沼から「血盆経」(けつぼんきょう)と言う「女人成仏」を説いた経典が出現したと言う伝説があり、全国的に女性の信者を集めていたことで知られています。

古代インドでは女性の地位は極めて低く、浄土にも女性はいないと考えられていました。その影響は仏教にも及び、女性はそのままでは成仏し難い存在とみなされていました。

日本でも鎌倉時代になると、親鸞や日蓮などのように女人成仏を認める考え方も見られるようになったものの、一般には「女鎖」とか「女賊」と呼ばれ、女性は血で穢れた罪深い存在であり、成仏を妨げる「業障」となるものとみなされていました。

そのため、高野山や金峯山のように、「女人禁制」の結界石を立てて、聖域・霊場への女性の立ち入りを禁じていた場合も普通に見られていました。

今日の男女平等の思想に比すると何とも不合理な考え方でしたが、この血盆経では、血によって地神・水神を穢したために血の池地獄に落ちる宿命を持つが、この血盆経を書写し、祈ることによって救済されると謳っていました。

この経典は中国で10世紀以降、明・清時代に、道教や仏教その他の思想をもとに民間で広まった「偽経」と言われ、わずか420字の小経典でした。日本に伝えられたのは室町時代以降で、日本国内で一般に普及したのは江戸時代になってからのようです(『世界大百科事典』平凡社)。この経典は、同じ東アジアでも朝鮮ではほとんど受容されなかったと言われます。

この正泉寺が、女人成仏の寺として有名になったのも、江戸時代の後期、幕末のようです。寺には、元文元年(一七三六)の奥書のある「血盆経縁起」や紀州徳川家の久姫・桂香院(鳥取藩主池田宗泰夫人)の書写した奉納経典(天明三年)の外、絵画三点などが残されています。

写真は「女人成仏血盆経出現図」とする絵で、手賀沼に経典が表れ、小舟でそれを拾う様が描かれています(『我孫子市史』民俗・文化財編、一九九〇年)。

正泉寺の山門風景

もともと原始古代には、女性が血で穢されていると言った思想はありません。いわゆる血穢思想が形成されたのは陰陽道の影響によると言われています。

「女人成仏」とは救済を言うものの言い換れば女性差別。戦後は当然、血盆経信仰は禁止されました。過去の歴史にはこんな一頁もあったということを学んだ気がします。

正泉寺の参道は、もとは南の手賀沼畔の船着き場まで通じていたそうです。次第に市街化が進み、街道筋からの参詣が盛んになり、北から松並木が作られて表参道になりました。

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