ちば民報レポート

被爆の日から(上)

小野瑛子◇ちば民報 2013.9.1

原爆被爆者の平均年齢は78歳を超えました。8月14日県庁で、千葉県原爆被爆者友愛会が「被爆体験を聞く会」をおこない、小野瑛子さん(被爆時6歳)が被爆体験を語りました。後日いただいたメモの要旨を含め、今号と10月6日号に分けて掲載します。

家族最後の朝食

8月6日の朝食は、隣のおじさんが持ってきてくれたお餅5個。4人が食べ、残った1個を姉が手にしたとき、母は言います。
「洋子ちゃん、残しておいて、おやつに食べたら?」
「いま食べたい。もし今日、空襲があって死んだら食べられない」
結局餅は私と半分ずつ食べました。このとき、姉の言葉が現実のものになるとは誰も思いませんでした。

教師の父は、生徒を引率して勤労奉仕で市の中心部へ行きました。姉は学校に行き、私はひとりでお風呂で水遊びをしていました。そのとき、空襲警報はないのに飛行機の爆音です。
「お母ちゃん、B29がくる」
「お風呂から出て、座敷に行きなさい!」
裸のまま座敷に飛び込んだとたん、激しい衝撃を受けました。庭いっぱいに大きなオレンジの光が炸裂するのを見ました。

何分後かに「瑛ちゃん、瑛ちゃん」と呼ぶ母の声に、私は、意識朦朧とするなかでも本能的に「お母ちゃん、お母ちゃん」と必死に叫びました。口の中に砂やほこりが入ってきましたが、かまわず叫び続けました。

私は壊れた材木で囲われた鳥の巣のようなところに落ち、奇跡的に助かったようです。母は玄関のそばにあったポンプの水で、ふたりの血だらけの身体を洗いました。

見渡す限り一面の瓦礫の原でした。叫び声も泣き声も、人の話す声も聞こえません。あまりにも大きな衝撃に、みんな声も出ないようです。うす闇の中を、全身血まみれの人、半裸で杖をついている人、足をひきずっている人…。この世のものとは思えない光景が広がっていました。

炎にはばまれて

被爆直後の広島爆心地付近、ほとんどの建物は倒壊し、わずか原爆ドームだけが壁を残している。

あちこちから火の手があがり、私の家も燃えはじめました。隣家では、私とよく一緒に遊んだ男の子が家の下敷きになり逃れられないようです。

姉の学校の方は、さらにごうごうと燃えさかり、炎の中から悲鳴や泣き声が響きます。私は怖くてたまらなくて、母の胸を叩き、「逃げようよ、逃げようよ」と泣き叫びました。

母は、燃えている家の前に私をおろし、「瑛ちゃんは自分で逃げなさい。お母ちゃんは洋子ちゃんを探しにいくから」と、学校に行こうとしました。私は、蹴られても、母の足を離しませんでした。炎の中に置き去りにされる恐怖が強く、自分のことしか考えていなかったと思います。

炎と私にはばまれて、母は姉を探しにいくのを諦め、私を抱きあげ、緊急時に行くことになっていた高須という町の知人宅へ向いました。

炎・血・黒い雨

途中で見た、炎と血で染まった光景は70年近くたったいまでも突然、鮮明によみがえり私を苦しめます。

電車通りは、みんな幽霊のようでした。両手の先には、やけどではがれた腕や手の皮膚がぶらさがり、身体も真っ赤にむけて血がしたたっています。顔も2倍くらいに腫れあがり、唇も腫れてめくれ、眼が見えないのか前を歩く人の衣服をつかんで、ようやく歩いている人もいました。子どもたちは「お母ちゃん、お母ちゃん」と、かすかにつぶやいています。

防火用水には、水を飲もうと人が群がり、そのまま息たえたのか、動かない人もいました。ゆでた海老のように全身が赤くやけた遺体や、真っ黒な遺体が道に転がっていました。

周囲の燃えさかる家からは助けを求める声も聞こえます。でも誰も、助けることも手を貸すこともできません。赤と黒だけの世界です。空も周囲もうす闇に閉ざされ、その闇を炎と血が赤く染めていました。

福島川まで来たとき、黒い雨が降ってきました。タールのように粘着性のある雨で、素裸の私の肌に黒い斑点となってしみつき、川の水で必死に洗ってもとれませんでした。このとき黒い雨に含まれた放射性物質が、肌を通して体内に入り込んだかもしれません。

高須の知人は、すぐに風呂を沸かしてくれました。あとで知ったことですが、風呂に入って黒い雨を洗い流したことと、新鮮なトマトを食べたことが、私の放射能障害を比較的、軽いものにしてくれたようです。

母は、再び姉を探しに市内に戻っていきましたが、夜遅くひとりで帰ってきました。  母は翌日も避難所を歩き回りましたが、父も姉もみつかりません。そして翌々日、「きっと洋子はいない」というかすかな希望にすがって、遺体置き場に行き、たくさんの遺体の間に横たわる姉を発見したのです。焼けただれた身体には母がゆかたをといて作った朝顔の模様のワンピースの切れ端がついていました。

姉の遺体を引き取ることは出来ませんでした。おびただしい数の死者のために、姉は校庭の隅に掘られた大きな穴に放り込まれ、大勢の死者と一緒に焼かれました。

その夜、母と私は父が勤めていた学校に行きました。爆心地近くの本川土手で、作業中に被爆した父たち教師4人と322人の生徒たちは、ほとんどが数時間以内に亡くなったそうです。

宮島の海へ

父と姉の死を確認した翌日、8月9日のことです。母は私を連れて宮島に行きました。姉が行きたがっていた宮島、平和になったらみんなで行こうねと約束していた宮島、その海で母は私との心中をはかるのです。

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