ちば民報レポート

被爆の日から(下)

小野 瑛子◇  ちば民報 2013.10.6

宮島の海

海に入る前に、母は私にうどんを食べさせ、おもちゃを買ってくれました。嬉しくて大はしゃぎしたことは覚えています。

宮島の海は遠浅なので、飛び込んで死ぬというわけにはいきません。母は強い力で私の頭を海中に押し込み、押さえ続けました。私は必死で暴れ、母の手をふりはらい逃げました。母は追ってはきませんでした。腰から下を海中につけたまま、遠くから私を見つめていました。そのとき私は、母が遠くへ去ってしまったような、強烈なさびしさを感じていました。

母が私を炎の中に置き去りにしようとしたことと、宮島の海で殺そうとしたことは、母と私との間に目に見えない垣根を作ってしまいました。原爆投下前の、あの絶対的ともいえる母への愛を取り戻すことはできませんでした。

その翌日、私たちは知人の家を出て、行くあてもなく市内をさまよいました。夕方になり、野宿するしかないと道路にうずくまっていたとき、祖母の友人が探しあててくれました。家の焼け跡を見て、死んだものとあきらめて帰る途中だったとのことでした。

この日、長崎にも原子爆弾が投下されていたのですが、私たちには知るよしもありませんでした。

日本の敗戦

8月15日、日本の敗戦が告げられました。あと一週間早ければ長崎への原子爆弾投下は避けられた、10日早ければ広島への投下も避けられた。敗戦を告げるラジオを聞きながら泣き崩れた母の姿が、いまでも心に焼き付いています。

その夜、母は再び私との心中をはかりました。眠っていた私は草むらに連れて行かれ、首を絞められましたが、私はもう抵抗しませんでした。焼けただれた姉に水いっぱい飲ませてやれなかった、罪の意識にさいなまれていた母がかわいそうで、一緒に死んだほうがいいと思っていました。

しかし母の力がゆるみ、母の胸に抱きしめられ、暖かな涙が私の顔にしたたってきたとき、あぁ、生きているんだと感じました。

黒い雨は一生

被爆直後のがれきだけの広島の街

その頃から、母も私も激しい吐き気と頭痛、腹痛、下痢におそわれ、歯ぐきからの出血や脱毛もありました。異変は2~3ヶ月続きましたが、それらが急性放射能障害だとわかったのは、何年もあとのことです。

激烈な症状がおさまったのちも、症状は何年も続きました。転んでケガをすると出血が止まらず、小さな傷もケロイド状の傷跡として残りました。

小学生になってからも、腹痛と気分の悪さにおそわれ、よく机につっぷしていたものです。学校も休みがちで、こうした症状は「原爆ぶらぶら病」と呼ばれていました。

母は私に、被爆者であることを他の人に言ってはならないと命じました。そして、「人間の細胞は7年たったら入れ替わる。7年間だけ我慢しなさい」との母の言葉を素直に信じ、中学生になったら元気になれるという希望にすがって子ども時代を過ごしたのです。

そして実際に、中学2年生になった頃からメキメキ元気になり、高校、短大と順調にすすみ、卒業後は企業に就職して幸せな青春時代を送れました。

しかし、職場の男性と恋をして婚約したのですが、相手のご両親が「被爆者からは奇形児が生まれる」と反対され、破談になりました。広島だけでなく全国的に、そうした風評が根強く残っていました。

私は64歳までは、普通の人以上に健康でした。ところが64歳の終わり頃から体調が悪くなり、一気に32キロまで体重が落ち、65歳になって間もない頃、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)と診断されました。同時にバセドウ眼疾という病気になりました。私の症状は重く、薬ではなかなか回復せず、甲状腺を摘出する手術を受けました。

バセドウ眼疾は大変な難病で、激しい痛み、モノがふたつに見える、視力がおとろえるなど、さまざまな症状が出ます。私もこの症状が一気に出て、発病して半年後には、失明寸前という状態になりました。医師の「急激な悪化は原爆が影響しているのかもしれない」という言葉に、あの日に浴びた黒い雨の冷たさを思い出しました。

さらにショックだったのは、免疫力が低下し、手術はできないと宣言されたことです。それを伝えられたときは、ただただ、悔しくて、思わず涙をこぼしてしまいました。

被爆時は幼い少女だった私が、放射能障害の苦しみを乗り越え、スポーツで身体を鍛え、懸命に勉強し、成人してからも頑張って仕事をしてきたのに、年とってこんな仕打ちを受けるなんて…。

ありとあらゆる治療を受けましたが、現在も左目はほとんど見えません。医師からは、再発しても手術はできないと告げられています。

諦めずに

そんな今だからこそ、戦争や原爆の悲惨さを、世界中の人々にむけて語り継ぎ、書き継いでいきたい。原子爆弾のあの惨状から奇跡的に生きのび、放射能障害を乗り越え、大病からも生還した私に残された使命だと思っています。

世界で最初の被爆国である日本は、世界に向けて非核三原則を訴えていくことが必要ではないかと思います。実現は難しいかもしれないけれど、諦めずに訴え続けていきたい。そう私は願っています。

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