ちば民報レポート

保健室の子どもたち13 健康と平和を見つめ

◇養護教諭サークル 中学校 あまちやん

  ちば民報 2014.8.24

先日、7人の仲間達と筑波に行ってきた。養護教諭の大先輩を訪ねての小旅行だった。先輩は、守屋ミサさん。今年93歳になる。

青春時代は、太平洋戦争真っ直中。従軍看護婦として戦争に参加し、空襲や原爆など悲惨な実態をつぶさにみてきている。

女学校までを佐渡島で過ごした守屋さんは、修身の教科書に登場するナイチンゲールにあこがれ日赤に入学した。日赤の看護婦養成所では、専門教育と共に徹底した軍隊的教育を受ける。「国に報いて兵士をいたわる」という意味の「報国恤(じゅっ)兵」が強調された。この教えは、絶対的な中立を守る国際赤十字に反するものであるが、疑問も持たなかった。

日赤の看護婦となり、召集を受けたのは、真珠湾攻撃の約2か月前。1941年10月。広島の護国神社には、日赤救護員500名が集められた。ここで正式に日本陸軍の軍属となった。約半数が繰り上げ卒業の学徒動員の少女たち。「後輩たちが卒業証書を受け取り、扉を開けた隣の部屋には、赤紙の召集令状が待っていたのよ」と語る。

最初に乗船した病院船は「アメリカ丸」。広島の宇品港を出港し、台湾で負傷者を初めて収容。門司港で負傷者を降ろした。この時から約2年間、病院船勤務は続いた。基地の宇品港と戦地間を22往復した。極寒の地から赤道直下までその寄港地は広範囲だった。

はじめは、負傷者が多く、手足を切断した重症兵ばかりを収容することもあった。だんだん栄養失調、マラリア、デング熱等が増えていく。結核患者もいた。高熱による脳症、戦争の恐怖や罪悪感から、どの航海でも精神疾患患者が約1割はいたという。

最後の航路、ラバウルで収容した患者のほとんどは飢餓状態。故国を前に船の中で亡くなる人もいた。甲板の最後尾にある窯で火葬するのも看護婦の仕事だった。火葬は24時間続けても間に合わず水葬した遺体もあった。寺の娘という婦長がお経を上げて弔った。

軍需物資や従軍慰安婦も、病院船で運んだことを守屋さんは覚えている。

「夜の甲板にでて泣いている女の人がいた。きっと慰安婦の人だったと思う。昼間は荷物と一緒に船底で隠れるようにして。名前ではなく、なぜかピーさんと呼ばれていた」と。伝えておきたい話はつきない。

召集解除となった後、再召集された守屋さんは広島陸軍病院分院に勤務した。広島原爆投下後、次々に運び込まれた被爆者。病室は強烈な悪臭とうめき声。地獄絵図の中、二次被爆を受けつつ、看護に忙殺された。

戦後、守屋さんは養護教諭の道を選んだ。自身の体験から平和教育に目覚め、各地で語り、行動し様々な活動を続けてきた。「子どもの健康を守るためには、背景にある平和を守らなければ」。久しぶりにお会いする守屋さんの穏やかな表情と熱い想いは少しも変わっていなかった。

帰り際、被曝した木でつくった楽器『コカリナ』を吹いてくださった。筑波の真っ青な空に、その音色は広がっていった。

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